有吉弘行というテレビにとってのデナイアブルdeniableな存在
どーもサイトーです。
また頑張ってぼちぼち行こうと思います。
僕は有吉弘行のファンでもないし、別に嫌いでもないです。でも、存在が面白いなと思ってました。
再ブレイク時は過激な発言やあだなを付けるなどのパフォーマンスで脚光を浴びて、今は大分落ち着いた感じですね。
俺は彼が売れていく過程は「あいつやっぱり面白いもんな」というより、「テレビ局にとってありがたい存在なんだろうな」と思ってました。
過激さを手放さないといけなくなったテレビ
俺が物心ついてガチでテレビを見るようになったのは90年代で、この頃がテレビの過激さのピークだと思う。
エロにやらせにと何でもアリの時代だった。とんねるずなんかが食べ物を粗末にしたり、ダウンタウンが芸人を苛めるような企画をしたり、バカ殿でAV女優の裸が出てたり、たけしのお笑いウルトラクイズで爆破とか無茶苦茶させたりというように。
当時はガキんちょでそういうのが面白くて仕方なかったわけだけど、21世紀に入りそういうのもどんどん規制が入って出来なくなってきた。
まぁ視聴者の苦情などをテレビ局もちゃんと聞くようにもなったとも言えるし、テレビ局側が苦情対処するのが面倒くせーってなったのもあると思う。
そういう過程でテレビの面白さの一要素である過激さをテレビ局は手放して行った。
テレビ局(番組)は過激になれないなら個人に過激になってもらう
21世紀に入りネットの普及でテレビの視聴率は下降線を辿り、しかも視聴率を取る一要素の過激さを失った。
テレビ局は過激さを使いたいし、視聴者(の一部)もそういうのを求めている。しかし、テレビ局(番組)が過激なことはできない。
となった時に出てきたのが有吉弘行という過激さ代行人なのかなと。ここ数年の坂上忍もそうだと思う。
番組の企画ではなく彼ら個人で過激さを代行することで、テレビが今は企画として出来ない過激要素をテレビは再獲得したのではないだろうか。
過激さ代行人はテレビ局にとってデナイアブルdeniableな存在
有吉弘行や坂上忍がどんなに無茶苦茶なことを言っても、テレビ局にとっては個人の発言なので何か問題になっても彼らが謝罪するんだろうし、彼らを切ればいいだけだ。
テレビ局が欲しいものをテレビにもたらしてくれながら、テレビ局にとっていつでも否定できる存在(deniable)。それが有吉弘行や坂上忍なんだと思う。
まとめ
デナイアブルdeniableという単語を知ったのは落合信彦の海外の傭兵へのインタビュー本だった。それを最近読み返して、使いたくなったのでこんな記事を書きました。
テレビはここ10年、1日1時間も見ていません。正直スマン!